せむし男がホテルに現われた。
この感情は、決して、その方を侮辱していっているのではありません。
人生の不思議さを、そのまま表現しているのです。
事の成り行きを説明します。
今から30年前、私はある医用機器メーカーの輸出担当でした。
技師長が、ある朝やってきて、私の上長に何やら話していた。
すると私が呼ばれて、3日後、新潟に出張ということになった。
技師長と一緒に新潟に行くと、紳士のドクターが現われた。
別に威張ったところもなく、普通に私に接してくれた。
後で解った話だが、この先生は消化器系の超音波診断では先駆者的立場の先生だった。
結局、新潟出張は、この先生にブラジル・アルゼンチンで超音波セミナーをやってもらおうというのがこの時の目的であったらしい。
先生と技師長と私の3人旅。
先生の超音波セミナーは素晴らしかった。
セミナーが終わると200万~300万円もする装置が20台30台とポンポン売れていく。
この時初めて私は、この先生の凄さを知った。
また、この旅行の間中、この先生の個人的な素晴らしさを感じた。
その後、この先生はアジアに何度もセミナーに行くことになった。
おかげで先生の方も、成功していった。
私が先生と会わなくなって20年、私は会社を退職し、自立自営。
もう、医学の業界から離れて久しくなる。
私の昔の同僚から、先生が久々に上京されるから会いたいといってきたという。
風の便りに、先生はパーキンソン病になってしまって、あまり動けないと言うことは効いていたが、
九州まで簡単に行くことはできない。
今回が先生との別れになるかもしれないと出て行った。
6時半先生は新橋第一ホテルに来るというので待っていた。
しかし、予定より一時間も遅れて、ようやく私の同僚の電話に入ってきた。
どうも、羽田からモノレールに乗るらしいが、ハッキリ聞き取れないと言う。
それから一時間後に、先生が現れた。
本当に、”ノートルダムのせむし男”同然。
腰は曲がり、歯がほとんど抜け落ち、2本の歯だけが牙のように見えた。
片目はつぶれかかっていた。
下から見上げる形相は怖いものを感じた。
私は先生に声をかけた。
「久しぶりです」
すると、先生も何か返してきたが全く理解できず。
私は先生の背中に手を触れた途端、ビックリした。
雨に降られて背広はぬれていたが、体温が温かく湯気が出ていた。
羽田から、一人で杖をつきながら一生懸命やってきたことがよく解る。
我々は早速チェックインの手続きを始めた。
先生は曲がった腰をじんわりと伸ばし、紙に自分の名前を書いていく。
辛そうであった。
一旦先生を部屋まで連れて行き、我々は、一階で先生を待った。
私の同僚二人も、一体この先どんな対応をすればいいか、ショックが大きくて、何も言えないほどだった。
しばらくしたら、先生はエレベータから降りて来た。
外は雨だから、食事はホテル内ですることにした。
椅子には普通に座ることができた。
しかし、食べるときには、上手く食べることができない。
手はしっかり動くが、口の動きが悪い。
私は昔話を始めた。
ブラジルの話を始めた。
イグワスの滝の近くのホテルカタラタスの話をした。
先生はアルゼンチンタンゴが好きで、夜明けの4時まで聞いていたことを話してくれた。
また、インドネシアやマレーシア、タイの話をした。
驚いたことに、実に細かく覚えていた。
2時間もの時間があっという間に過ぎてしまった。
お客はほとんどいなくなり、我々だけ。
この2時間もの間に先生の表情が随分変わっていった。
話し方も普通になっていった。
だが、レストランを出るときには、せむし男に戻っていた。
先生は3週間後には手術をするという。
しかし、先生は別れる時に、来年は九州で会おうという。
屋台でてんぷらの美味しいところに連れて行く、と。
我々も楽しみにしておくから、先生もそれまでに元気でいてくれと言って別れた。
私は、その夜は電車の中で、先生の腰の曲がった様を思い出し、
よくも、あんな姿で東京まで来たものか!
あんなに元気であった先生が、あんな変わり方をするものか!
人生の厳しさをまざまざと感じた。
長津田の駅を降りてもタクシーに乗る気分になれず、50分の距離をとぼとぼと歩いて帰った。
明日、わが息子が南アフリカに経つので、今日成田に向かった。
どうか、無事に行って行って来いと、途中のお寺の大日如来に手を合わせた。
そこには、大日如来は延命の仏と書いてあった。