Sunday, October 28, 2007

せむし男がホテルに現われた。
この感情は、決して、その方を侮辱していっているのではありません。
人生の不思議さを、そのまま表現しているのです。

事の成り行きを説明します。

今から30年前、私はある医用機器メーカーの輸出担当でした。
技師長が、ある朝やってきて、私の上長に何やら話していた。
すると私が呼ばれて、3日後、新潟に出張ということになった。

技師長と一緒に新潟に行くと、紳士のドクターが現われた。
別に威張ったところもなく、普通に私に接してくれた。

後で解った話だが、この先生は消化器系の超音波診断では先駆者的立場の先生だった。

結局、新潟出張は、この先生にブラジル・アルゼンチンで超音波セミナーをやってもらおうというのがこの時の目的であったらしい。

先生と技師長と私の3人旅。

先生の超音波セミナーは素晴らしかった。
セミナーが終わると200万~300万円もする装置が20台30台とポンポン売れていく。

この時初めて私は、この先生の凄さを知った。
また、この旅行の間中、この先生の個人的な素晴らしさを感じた。

その後、この先生はアジアに何度もセミナーに行くことになった。
おかげで先生の方も、成功していった。

私が先生と会わなくなって20年、私は会社を退職し、自立自営。
もう、医学の業界から離れて久しくなる。

私の昔の同僚から、先生が久々に上京されるから会いたいといってきたという。
風の便りに、先生はパーキンソン病になってしまって、あまり動けないと言うことは効いていたが、
九州まで簡単に行くことはできない。

今回が先生との別れになるかもしれないと出て行った。
6時半先生は新橋第一ホテルに来るというので待っていた。
しかし、予定より一時間も遅れて、ようやく私の同僚の電話に入ってきた。
どうも、羽田からモノレールに乗るらしいが、ハッキリ聞き取れないと言う。
それから一時間後に、先生が現れた。

本当に、”ノートルダムのせむし男”同然。
腰は曲がり、歯がほとんど抜け落ち、2本の歯だけが牙のように見えた。
片目はつぶれかかっていた。
下から見上げる形相は怖いものを感じた。

私は先生に声をかけた。
「久しぶりです」
すると、先生も何か返してきたが全く理解できず。

私は先生の背中に手を触れた途端、ビックリした。
雨に降られて背広はぬれていたが、体温が温かく湯気が出ていた。
羽田から、一人で杖をつきながら一生懸命やってきたことがよく解る。

我々は早速チェックインの手続きを始めた。
先生は曲がった腰をじんわりと伸ばし、紙に自分の名前を書いていく。
辛そうであった。

一旦先生を部屋まで連れて行き、我々は、一階で先生を待った。
私の同僚二人も、一体この先どんな対応をすればいいか、ショックが大きくて、何も言えないほどだった。

しばらくしたら、先生はエレベータから降りて来た。
外は雨だから、食事はホテル内ですることにした。

椅子には普通に座ることができた。
しかし、食べるときには、上手く食べることができない。
手はしっかり動くが、口の動きが悪い。

私は昔話を始めた。
ブラジルの話を始めた。
イグワスの滝の近くのホテルカタラタスの話をした。
先生はアルゼンチンタンゴが好きで、夜明けの4時まで聞いていたことを話してくれた。

また、インドネシアやマレーシア、タイの話をした。
驚いたことに、実に細かく覚えていた。

2時間もの時間があっという間に過ぎてしまった。
お客はほとんどいなくなり、我々だけ。

この2時間もの間に先生の表情が随分変わっていった。
話し方も普通になっていった。

だが、レストランを出るときには、せむし男に戻っていた。

先生は3週間後には手術をするという。

しかし、先生は別れる時に、来年は九州で会おうという。
屋台でてんぷらの美味しいところに連れて行く、と。
我々も楽しみにしておくから、先生もそれまでに元気でいてくれと言って別れた。

私は、その夜は電車の中で、先生の腰の曲がった様を思い出し、
よくも、あんな姿で東京まで来たものか!
あんなに元気であった先生が、あんな変わり方をするものか!
人生の厳しさをまざまざと感じた。

長津田の駅を降りてもタクシーに乗る気分になれず、50分の距離をとぼとぼと歩いて帰った。

明日、わが息子が南アフリカに経つので、今日成田に向かった。
どうか、無事に行って行って来いと、途中のお寺の大日如来に手を合わせた。
そこには、大日如来は延命の仏と書いてあった。

Thursday, May 24, 2007

岡崎さんの話は続きます。
岡崎さんのお母さんがなくなる前に、一時、小さな病院に入っていた。

腰の痛みに耐えかねて、一時入院したのだが、そこで大量のモルヒネを打たれたらしい。
一気に、肝臓に障害をもたらしたらしい。

その病院を直ぐに出て一端家に戻るのだが、退院の前にそこに入院していた100歳のおばあさんが、つかつかと岡崎さんのところに来て耳打ちをしたと言う。
もうお母さんは亡くなっておられますよ、って。

まだ、息をしているのに変なことを言うおばあさんだなぁ、とその時は思ったと言う。

退院して岡崎さんのお母さんは自宅に帰り、数日、そこで寝たきり状態でいた。
その時、岡崎さんは世話をするために、お母さんの枕元に行ったが、すやすやと眠っている姿を見て、驚いたと言う。
なぜか、そこで眠っているお母さんには生気がなく、まさに死んでいるとしか思えなかった、と。

だから、直ぐに親戚に電話をしたと言う。
それから、まもなく、大学病院に入るのだが、その姿は死んでいるのに眠っている姿だったと言う。

眠ったまま死んでいくという表現は聞いたことはあるが、
死んでいるのに眠っているという表現は聞いたことがない。

なぜ、そうだったのか?

岡崎さんは言う。
「私のおばあちゃんは、自由に魂が飛んでいけるのよ。だから、体は眠っているが、魂がそこにないから死んだように感じたと思う。だから、今でも、おばあちゃんの魂は自由に飛んでいる。いつまでも私たちを見守ってくれているんだよ。」

Wednesday, May 23, 2007

岡崎さんの話。
すでに、岡崎さんの話で、葬儀の際、亡くなった母親が弘法大師になって、歩き始めた様が、岡崎さんの脳裏をかすめたということを書きました。
次のお話はその続編です。

岡崎さんの妹さんが、ある時、お菓子を持ってやってきた。
その御菓子は、色々な図柄が描かれた煎餅だった。

その煎餅も、割れた煎餅ばかりを箱詰めにしたもの。
だから、割れ煎餅で安く売られていたもの。

折角だから、お茶にして一緒に煎餅を食べようということになり、箱を開けた。
箱の中の割れた煎餅をお皿に出した途端驚いたと言う。

その色々な図柄の煎餅はほとんどが割れていたが、弘法大師の図柄の一枚だけは、
全く割れていなかったと言う。

そこに、亡くなった母親の姿が重なって見えたと言う。
更に岡崎さん(仮称)からの投稿を紹介します。

母親が弘法大師になった続編。
母親の死後、数年経って、兄弟姉妹夫婦総勢10人で、山口から大分の宇佐神宮にお参りに行ったときの話。

兄弟姉妹が集まって出る話は昔話。
苦労した話を、涙を流したり、笑ったりで楽しく話す。
そんな話をした後で、いよいよ、宇佐神宮にお参りに行く途中、突如として、
お年寄りが現れた。
そのお年寄りが歩く様は、つい先ほどまで話していた、亡くなった母親の姿にそっくりだったそうだ。

その光景は、兄弟姉妹全員が見ていたという。

母親も一緒に来たかったんだね、という感想でその時は終わった。

しかし、岡崎さんは、その時から確信したと言う。
私達の母親は私達の守護霊になって、いつまでも一緒なんだ、と。

岡崎(仮称)からの投稿。
岡崎さんは現在69歳。
今から20年位前に、父親を亡くした。
その翌年、母親を亡くした。

父親の葬儀の際に、次のような経験をお持ちでした。

曹洞宗だから、お坊さんが一通りお経を読んだ後、
引導を渡す。
すなわち、もう、お前は死んだのだから、迷わず成仏せよ!と。
その言葉の激しさに、私は、驚いた経験がある。

岡崎さんは、お坊さんが引導を渡す瞬間に、次の光景が脳裏に現れたと言う。
父親が、転げるように山の麓に駆け戻っていく様である。
その山は、父親の生まれ育った山だそうだ。

ところが、母親は父親の死後、一年半後に亡くなった。
母親は、少し太めだった。そのため足が悪く、歩くのも杖が必要なほど。
その後、腰を痛めてしまうことになる。
相当な痛みのため病院に担ぎ込まれたら、モルヒネで痛みを和らげようとしたところ、逆に容態が激変。結局、肝不全で死亡となる。

その母親の葬儀の際、引導を渡す瞬間、岡崎さんは、母親が、弘法大師になっていたと言う。
黒装束の弘法大師が長い杖を持って優雅に歩き始めたと言う。


「ああ、自分の母親は、弘法大師になったのか!」 、という感想を持ったと言う。

岡崎さんのこの話は、実にリアルで面白いと思った。

次のような投稿をもらいましたので紹介します。
お母さんが50過ぎの時、その長女が3人目の子どもを生む。
その時の不思議な話です。

その娘さんは3人目のお産で、相当苦しんだそうです。
予定日が来てもなかなか、陣痛が来ない。

ようやく陣痛が起こってきたが、思うように子どもは出て来ない。
娘は顔をしかめて、苦しい表情をする。
そのお母さんは、背中をさする他に何も出来ない。

医者に呼ばれて、今晩が山。
状況次第では、帝王切開をしなければならない、と言われた。

悩み続けたそのお母さんは、暗い窓の外を見ながら、
「おばあちゃん、助けてよ!!娘があれだけ苦しんでいるんだから」
、と心の中で叫んだという。

その甲斐があって、無事翌朝男の子が生まれた。
そのお母さんは、嬉しさのあまり、泣いてしまった。
また、守ってくれた自分の母親(数年前に亡くなった)に手を合わせたという。

その孫が一歳になった夏のお盆のとき、ふと、自分の娘が、一年前を振り返って、
自分の母親に向かって、一年前のお産のとき、実はおばあちゃんが自分の枕元に座っていてくれたんだよ。
お盆だったから来てくれたのかね?
でも、おばあちゃんが、そばにいてくれて、非常に心強かったんだよ。

その話を聞いたそのお母さんは、
ええ、やっぱり、来てくれていたんだ。
おばあちゃんが、娘のお産を助けてくれたんだ、と一人でありがたいと手を合わせたという。

Sunday, May 20, 2007

昨日は6月20日、娘と息子が我々の結婚25周年を祝ってくれた。
本当は、5月15日だったが、日曜日にお祝いをしようとこの日になった。
食事場所は、まさに25年前に式を挙げた白金台の八芳園。
25年前の結婚式当日前夜は嵐のような大雨。
ところが、当日は朝からからりと晴れていい天気だった。

昨日も25年前と同様のいい天気。
伊豆からおじいちゃん、おばあちゃん及び芳子さんを呼んでお祝いをしていただいた。
食事は12時から。
堅苦しいセレモニーはせず、お祝いしていただくことに対し、簡単に感謝の言葉を言っただけ。

話はいつものように弾む。
おじいちゃんがいつものように昔話をすると、みんなから総すかん。
おじいちゃんは、私の前の席に座った。
ところが、今日のおじいちゃんは、どこか、変なのに気がついた。
昔話を始めるおじいちゃんの顔が、なぜか、私の叔父さん”五郎さん”に見えてくるのだ。
あれっ?と思うと、また、おじいちゃんの顔に戻る。
また、しばらくしていると、五郎さんお顔に変わる。
別に、五郎さんの顔かたちに似ているわけではないのに、おじいちゃんの目と鼻のところが、
五郎さんになっているのだ。

こんなことが3回か4回かあった。
私は、そのまま、気にも止めずに食事をした。
食事の後は、庭を歩いてみようということになった。
私は、ビデオカメラを持って、みんなの前を歩いていった。
すると、そこに、蛇が頭だけを出していた。
その蛇が私の目に飛び込んだ。
私は、なぜか不気味さを感じることなく、じっと見ていた。
蛇も、日の当たる方に出てこようとしていたようだ。
私は、その光景をなぜかビデオに納めようと思った。
この一連の光景は、特に変わったことではないが、おじいちゃんの顔が五郎さんの顔に変わったことの不思議さを思うと、なぜか、この蛇も関係があるような気がした。

ふと、私は、その蛇が親父の化身ではないかと思った。
その瞬間、あの五郎さんは、実は、お袋ではなかったかと感じた。
五郎さんとお袋は顔がよく似ていた。

私達の結婚25周年のお祝いに来てくれたのかと思った。
親父さんとお袋さんは私の結婚で最後までやきもきし、八芳園での結婚式を大変喜んでくれていた。

私は、夜、みんなが寝静まった後、写真の親父とお袋に話しかけた。
今まで、見守ってくれてありがとう。
25年が経ち、子供達が祝ってくれたことにかんしゃしている、と。

私には素晴らしい一日をもらった。

Thursday, March 01, 2007

不可解、その1
マイアミから3月1日、ニュースが飛び込んできました。
5週間前からしゃっくりが止まらなくなっていた米フロリダ州の少女のしゃっくりが28日、やっと止まった。しゃっくりは1月23日からずっと続いていた。
 しゃっくりが止まらなくなっていたのは、同州セントピーターズバーグに住む15歳のジェニファー・ミーさん。ミーさんは1月23日からしゃっくりが止まらなくなっていたが、セントピーターズバーグ・タイムズが1日報じたところによると、28日夕にやっと止まった。
 ミーさんは、感染病の専門家、神経病医、指圧専門家、催眠療法専門家、針灸師などに診察を仰いだが、効果はなかった。ミーさんはNBCテレビのニュースショーに出るなど、話題となっていた。なぜしゃっくりが止まったのかはよく分からない。
 ミーさんは、のどや鼻が痛いけれど、しゃっくりが止まってずっと楽になったと話している。